――政治を身近に意識するような環境で育ったのですか。
父方の祖母は大阪府羽曳野市の農家出身で、戦前は古くから続く地主だったようです。江戸時代にご先祖様が地元の課題を解決するために、命懸けで大井川を越えて江戸まで陳情に行ったことなどを祖母から聞きました。
先祖は播州赤穂(兵庫県赤穂市)の造り酒屋で、地元の郡長をしていました。赤穂浪士の「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助が書いたと伝えられる掛け軸も家に残っていたようです。
約400年前に赤穂から明石(兵庫県明石市)に移りました。曾祖父まで造り酒屋でしたが、曾祖父は次男で、分家として船場の繊維問屋を営みました。中学3年生の時に父が亡くなり、繊維問屋は引き払いました。
そんな祖父母から「地元の長になれば家財を失う。それでも地域のために貢献することは大切なことだ」と言っていたのをよく覚えています。
2021春 実家にて
2021春 実家の庭先
父は幼少期、お付きの人がいる恵まれた環境で育ったのですが、敗戦後に家が貧しくなったこともあって鳥居家で初めてサラリーマンになり、経理の仕事をしていました。気苦労もあったようで、若くして亡くなりました。
その後、母や私たち姉弟は多くの人たちに支えていただき暮らすことができました。そんな経験から人に対する感謝や思いやりの気持ち、人々のために尽くす志が強まっていったと思います。
――理系男子ですね。大学院でも学びました。
バイオテクノロジーの人気が高まっていた時期でしたので、大学では農学部に進みました。社会人になってから学生時代の100倍勉強しましたが(笑)、学部時代はむしろ合気道部の活動を頑張りましたね。
強引に勧誘されて入部したのですが、先輩方もしっかりしていて、相手にけがをさせたら負け、相手を生かす「思いやりの武道」であることも自分に合っていました。「達人になったら弱い者いじめをしない」ということを最初から教わります。相手に怪我をさせないためにも自己鍛錬を重ねました。
合気道部の先輩達と
――研究職で就職したのは、大手化粧品メーカーでした。
会社の上司たちと
きっかけは、「施設に入所している高齢の女性に化粧品でメークをしてあげると、気分が高揚して明るく笑顔になる」と女性医師から聞いたことでした。活発に活動していたころの自分を思い出して元気になる「フラッシュバック」という現象のことです。
化粧品は容貌を変えるとともに、皮膚などを健やかに保ち、しかも精神的にも元気にする力があるのか、と。人が本能的に求める美を提供する化粧品が、まだ解明されていない機能を持つ可能性を感じました。大手の多くは横浜か東京にありましたが、関西出身の私は、当時、西日本化粧品技術者会の会長を務めていた関西の大手に入社しました。
――研究所時代は研究に打ち込んだそうですね。
1年目は夏休みも取りませんでした。1ヵ月半、連日研究所に詰めたこともありました。大阪にサッカー日本代表の試合を見に行っても、祝勝会は一切なしで研究所にとんぼ帰りしたり、土曜・日曜も遅くまで研究所で働いたり。施設の管理者から「早く帰ってくれないか(笑)」と疎まれるくらいでした。
――若手時代はどんな研究をされていたんですか。
肌の皮膚のバリア効果があるカルニチンを研究し、国際学会で要旨を発表させていただきました。特許を取るのに時間がかかっている間に、他社に医薬部外品として製品化されましたが、自分の着眼点やセンスはよかったと思いました。
男性型脱毛症は男性ホルモンのテストステロンがジヒドロテストステロンに還元され活性化し、髪の元となる細胞の受容体にくっつくことで生じることが知られています。ジャスミン由来の香料成分から、ジヒドロテストステロンに近い化合物を複数合成し、受容体への拮抗阻害によりジヒドロテストステロンの働きを弱めることで男性型脱毛症を抑える化合物の研究をしました。
会社員時代 国際学会
医薬品だったら開発に10年、100億円、いや1000億円かかると言われる時代。化粧品は効果がマイルドですが、短期間に製品を出して世の中に早く還元したい。当時はそんな思いを強く持っていました。
その後、アルツハイマー症の根本的な治療薬の研究を行っている慶應義塾大学と共同研究で、あまり寝られない日々が続くことになります。
入社当時の会社員時代_会社オフィス
会社員時代_兵庫医大共同研究先で
――後輩の女性研究員と仕事をする中で、人材マネジメントに目覚めたそうですね。
もともと消費者として女性の存在感が大きい業界ですから、女性の悩みに向き合うことが仕事といってもいいくらいです。
入社して研究テーマを与えてくれた上司、その中でもご指導いただいたのは女性の上司でした。育てようという思いでチャンスを与えてくれて、今から思い返しても喜び、感謝しかないですね。その後、美白剤を開発していて、評価方法をつくったのですが、しっかりと後輩に引き継ぎ、学会発表のテーマにしてもらいました。一緒に学びながら教育・指導し、次世代に引き継いでいく。上司に恵まれ、その教育意識も引き継いだのだと思います。
――慶應での研究も、後輩の女性研究員と一緒に取り組みました。
「世界のために」と高い志と使命感で研究に打ち込む慶應の先生方の生き方を見て、私も共感することができ、微力ながら貢献したいとも思いました。
その一方で、次世代の女性研究員を育てるのも仕事です。30代の8年間をともに過ごす中で、彼女たちの悩みにもとことん向き合いました。色々悩みや愚痴を聞くうちに、陰の力に引き込まれたのか、ちょっとノイローゼになったくらいです(笑)。
相手を育てて生かしたいという思いやりが強かったみたいで、「鳥居さん、女性は話を聞いてもらえさえすればいいんです」と言われて、がっかりしたこともありましたね(笑)。「一緒に乗り越えよう」と熱弁をふるったら、感動して(?)泣かれたこともありました(笑)。
慶應大医学部薬理学教室の先生方と
――女性社員と向き合う中で、どういうことを学びましたか。
女性活躍社会をつくるには、男性ももっとリテラシーを高め、女性特有の悩みに寄り添わなければいけません。女性は男性と生物学的な違いがあり、職業適性や価値志向、社会的、心理的にも違ってきます。
また、働く世代のがんにかかるリスクは、女性は男性の2倍以上かかりやすく、AYA世代と呼ばれる若年層のがん患者の8割が女性とも言われています。男女がともに支えあう社会が必要だと強く感じています。人材育成と技術蓄積が会社にとっても、研究部門を預かっていた私にとっても経営の考え方の礎となっています。もし不景気になったとして、広告費を削るように人件費を削る。それを研究所でやってしまったら大変です。
ただ、会社は100人が100人役員にはなれない。では、かかわってくれた先輩・後輩に何をして報いることができるか。それを考え抜き、生産性を上げる能力のある人材を育てることだと思いました。そのために先進技術の導入や産学連携の推進などをとことんしました。チャンスを与えたい、どこに行っても活躍できる人材になってほしいという思いで社内の環境整備をしましたね。
その思いを込めた「3C」を研究所の合言葉にしました。三つのCは、情報を摂取するCommunication、研究テーマをつくるConception、新しいものを創造するCreationです。この考え方は、科学情報のみではなく、「顧客から情報」を取って需要を満たすために創造する「未来型コミュニケーションラボ」の設立につながりました。「3C活動をする取り組みには予算をつける」と宣言し、毎週1回の朝礼で若手がプレゼンをしたり、研究成果を報告したりする「3C会議」も充実させました。化粧品、食品、医薬品の垣根を超えて知識が吸収され、力量が上がっていったのではと思います。
――「都民ファーストの会」は新しい地域政党。人材づくりの経験が求められそうです。
新人議員ですので、これまで学ぶ姿勢でやってきました。ただ、信念がありますので、人に言われてではなく、感じたことに自然と体が動くんです。
私は、病気にならない対策として、社会保険料や国民健康保険料の負担を引き下げるためにも、健康で病気になるリスクを減らすヘルスケア産業の育成が真の解決策になるという信念で、この4年間、全力に走ってきました。
都民ファーストの会では、私のほかにも、多彩な経験を持つ人材が数多く活躍しています。議員バッジほしさで続けている職業政治家ではなく、専門性を生かして課題の解決に導くことを生き甲斐として政治家をしている人たちです。
これからも党内教育などを通じて人材を育成し続け、新陳代謝も活発にする中で持続発展する組織になっていってほしいという思いがあります。優秀な人材による新陳代謝が進めば、日本の政治はもっと変わっていくはずです。
精神論や「べき論」にとどまらず、未来につながる取り組み、新たな価値創造を実行し、この首都東京をもっと発展させていくためにも、専門性をもって活躍できる仲間を増やし、政治を変えていきたい。次の4年間に向けて、決意を新たにしています。